【大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ】
死=本来は穏やかで安らかなもの だったが、医療が濃厚に関与するようになる。したがって、より非人間的なものに変貌(人工的な延命装置に繋ぐ)させてしまった。筆者は、医師が一番の恐がりではないかと考える。
本来の年寄りはどこか具合が悪いのが正常なはずなのに。
病気などは他人が力づくで治療できるものではなく、本人の自然治癒力によるもの。したがって、本来の医者は脇役を演じることになる。老人の老衰死=飢餓(自然死)は夢うつつで穏やかな状態でありさほど苛酷ではないので、そっとしておくのが一番である。死を迎える年寄りの最後の役割は、もう死ぬのだという信念をもって周囲に自分の自然死を見せることになる。
将来的に多死社会がやってくるとなると、在宅での看取りを考える必要があるだろう。人は生きたように死ぬということに気づいた釈迦の真理(「死」が「苦」になる)とは、死というものは思い通りにならない、巡り合わせ次第であるということである。
実際、世間のニュースや某討論番組なども医療費が毎年右肩上がりとなっている、という文言をよく聞く。確かに、高齢社会となりかつ医師不足という状況である。この矛盾は、医師の役割と医療機関の目的がシフトチェンジしつつあるのではないか。一昔前は、脇役であった医師がで出しゃばってきて、人工的装置を提案しする。一方の病院などはただやってくる死を迎える場所から、延命治療を行う場所へシフトチェンジしてきている感は否めない。とは考えるが、個人的に家族の死が訪れるのが悲しくもあり怖くもあるので、延命を希望する思う。